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「三千盛(みちさかり)」という日本酒。十数年前に、土岐のお客さんから「美味しいこの地域の地酒」といただいたお酒で、それ以来、ファンである。日本酒度+11。端麗辛口のすっきりとした、飲みやすいお酒だ。 岐阜県多治見市笠原町にその蔵元はある。

レポーター紹介
生津 康広(なまつ やすひろ)建築家
  • 三千盛
  • 今も残るレンガ造煙突の風景
  • 左:三千盛
  • 右:今も残るレンガ造煙突の風景

笠原町といえば、建築業界人にとっては、タイルの産地として、全国的に知られているところ。日本のタイルの50%をこの地で生産されているそうで、街のいたるところに工場がある。 江戸時代初頭は妻木家の所領だったが、1660年妻木城主の急死により幕府直轄の天領となった。瀬戸もそうだが、笠原も古くから陶器が生産されており、町内にある陶ヶ丘公園には四百数十年前、この地に陶業の基礎を築いた加藤治郎太夫の陶祖碑がある。当初「笠原茶碗」といわれた陶器が主力生産品であったようだが、大正から昭和初期にタイル生産へとシフトし、現在に至っている。 瀬戸市から国道248号線を北進し、岐阜県に入ったあたりを右折すると、笠原の町に入る。この道は江戸時代、品野街道と呼ばれ、陶器の原料や製品、そして伊勢参りの参拝者が辿ったそうだ。品野街道を記したある文書には「幕末頃建立の酒屋と土塀の家の前の尾張坂に至る……」という記述があるそうで、この「酒屋と土塀の家」が三千盛の蔵元である。創業は1772~1781年の安永年間。徳川十代将軍家治の時代だ。尾張国清洲出身の水野鉄治なる人物が、この地に創業した蔵元とある。

地図

蔵元と散策

  • 三千盛の店構え
  • 三千盛の店構え。酒屋のシンボルである杉玉が軒に吊るされている。サイズは小さめ。訪れた時は、残念にも店は開いていなかった。築200年とされる建物で、町屋風。間口はさほど広くなく、通常はここで小売をしているそうだ。左手に、腰板貼に瓦を載せた土塀が続く。
  • 塀の一部
  • 少し離れた橋から眺めると、この蔵元の広さと立派さがわかる。土塀に囲まれた敷地内には大小の、いぶし瓦を載せた建物が軒を連ね、大きな樹木がその間に枝葉を広げている。蔵のほか、住居部分らしい棟も。
  • 蔵
  • 正面から左手に回ると、蔵が目に入る。少し開けた上部の換気窓が、今も使われていることを示している。
  • 平瓦
  • 塀の一部、漆喰を塗るべきところに平瓦が使われていた。このデザインの意図は、まったくわからないものの、それなりの美しい表情ではある。
  • 換気用の開口
  • 石積みの上に造られたコンクリートの壁。換気用と思われる開口には、鉄製の格子が嵌められており、かなり防犯に気を使っていることがうかがえる。
  • 軒裏
  • 裏手に回ると、漆喰の外壁が続いていた。軒裏は土塗りがほとんど露出しており、一部に残っている漆喰で本来の姿が想像できる。朽ちつつある蔵元の姿を象徴しているようでもある。
  • 手漕ぎポンプのある井戸
  • 一部に残る手漕ぎポンプのある井戸。
  • 旧蔵
  • 道を挟んで建てられた「新蔵」といわれる建物。周辺に比して、若干、違和感のあるボリュームとプロポーション。アーチの付いた扉など、西洋風を取り入れている。が、「旧蔵」といわれる築200年の建物に比して、若干の残念感。
  • 出会橋
  • 蔵の西側には、小さな川が流れている。平園川と橋の欄干に書かれていて、庄内川の支流である。少し歩くと「出会橋」という橋がある。かなりベタなネーミング。橋の下で二つの川が合流していることが由来か、それとも、もっとロマンチックな出来事があったのかはわからない。この橋、10メートルにも満たない小さな橋だが、欄干が、全てタイルで仕上げられている。笠原ならではのデザインともいえる。
  • 笠原町の産土神(うぶすなのかみ)
  • 蔵元の近くには、「笠原神明宮」という神社がある。笠原町の産土神(うぶすなのかみ)とのこと。秋に山車馬が奉納されるそうだ。この地域らしく陶器の狛犬が社を守っている。

三千盛をもう少し

明治中ごろまで「金マル尾」「銀マル尾」「炭マル尾」の銘柄であったが「黄金」に変わり、昭和初年に上級酒のみ「三千盛」と銘うったそうだ。「マル尾」とはこの蔵元の屋号。尾は創業者の出身地にちなむ。この銘の由来だが、「残念ながら自慢できる由来はありません」ときっぱりHPに記されている。このゆるさがいい。小説家永井龍男に、「辛口の酒」として推薦されたことで、広く知られることとなり、山口瞳がエッセイで取り上げるなど、有名人にも愛された銘柄なのだ。

昭和30年代、世間では甘口の酒がトレンドとなり、「からくち三千盛」は苦難の時期を過ごした。当時の主人は、甘口への転換を勧める周辺の声にも関わらず、頑なに辛口の酒を造り続けた経緯がある。甘口全盛の時代であっても、辛口ファンは必ず存在しており、そのひとりが永井龍男。その出会いが、その後の三千盛を大きく変えていったのである。 この酒の狙いは「水口」にあるという。ある評論家が、この酒をこう評した「水みたいに抵抗なく、日本酒独特の旨さがあり、酔いざめのいい酒」。建築デザインと同じように、日本酒にも目標とする味のデザインがあり、ブームに躍らせられない、軸のぶれないスタンスがある日本酒だ。

今やどこでも各地の地酒を飲むことができる。が、昔の地酒は地産地消。地元の米を使い、地元の杜氏を頂点とする職人集団で、造られてきた。また、人の生活に酒は、古くから密接に関係してきた。日本書紀に出てくるヤマタノオロチの神話では、退治に酔いつぶし作戦がとられ、また神事に日本酒は欠かせない。祭りとなれば一斗樽が並び、一晩中酒盛りをしていた。地域経済、雇用にとっても日本酒の製造が、大きく関わってきた。また、日本の国家税収も、明治時代には最高33%酒税が占めたとのことで、酒は単なる嗜好品と侮ることのできないものだったのである。明治時代には40,000軒もあったとされる蔵元。国家財源として重い税がかけられ、その重圧により年々、数が減った。昭和に入ってからは、洋酒の普及などにより、さらに減少し、今や1,500軒を切るというのが蔵元の現状である。

岐阜県生まれながら、笠原の町には縁もゆかりもない私。だが、一本の日本酒の出会いが、この地を訪れるきっかけとなった。

今回のレポーターを務めた建築家

生津 康広 (なまつ やすひろ/ Yasuhiro Namatsu)

生津 康広 (なまつ やすひろ/ Yasuhiro Namatsu)
建築設計室アーキハウス
尾張旭市桜ヶ丘町2-59 グランドアーツ桜ヶ丘301号
TEL 0561-51-5002 / FAX 0561-51-5011
www.archihouse.jp
 「柱のキズはおととしの・・・」。柱に記された跡は当時の記憶を呼び覚まします。家は生活の過程を蓄積する記録装置とも言えます。楽しいこと、悲しいことなど、いろいろなエピソードを伴いながら時は流れ、暮らしの記憶が人の記憶とともに、その舞台としての家にも蓄積されるのです。時とともに味わいを深める家がいいと思います。家そのものの経年変化ばかりではなく、生活の積み重ねがそれをもたらすからです。この先何十年という家族の生活を記録が家に刻み込まれることを想像すると、家づくりは楽しくなってきます。
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